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昭和五十四年二月十四日  朝の御理解
   

御理解  第六十一節  「神より金光大神に、いつまても尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光代神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」


  昨日は十三日会で熱心に信心共励がございました。そのなかにどなたでしたでしょうか、日々が十三日会という発表をしとりましたですね。言うなら神願が成就する日として、まあ特別に合楽では十三日会に、朝からいろんな御用をさしてもらったり、そして、昼から信心の研修をするというわけで、段々、この頃十三日会も、宮崎に、末永先生のところの壱岐の郷ノ浦教会に、山田先生のところで、または富永先生のところで。今月からは、山口の西市教会の長田先生のところでも十三日会が持たれるようになりました。
  神様の願いが成就すると言う事は、結局は氏子が助かっていくという事にあるのです。神様の願いはもうそれ以外にないのですね。それなら、神様が助けて下さればよい、と言うわけなんですけれども、そこにはやはりね、置いたものを取るというわけにはいかない。おかげの頂けれる手立。それを例えば、まず神様の願いが成就した。その後に私共の願いが成就する、というような信心を頂こうと言うのであります。
  真の信心を頂いて、真の信心を人に伝えて行くのが神へのお礼、と。それに、その真の信心ということをどういう風に言うかと申しますと、合楽理念をもってする信心であり、信心生活であり、ね。そこから、その合楽理念の実験者であり、または実証者としての働きが生まれてくる。その働きがおかげである。だからそのおかげを人に伝えていく、という真の信心を、という事を合楽理念をもってするのですから、合楽理念そのものが、真の信心を説いてあるのである。だからそれを実験してみると必ず真のおかげがそこに伴うてくる、ね。それを人に伝えていくのが真の信心であり、それが神への御礼ともなり、そしてそれが神になるのぞ、とまで教えておられます。だから、いよいよ合楽理念の実験者、いよいよ合楽理念の行者としての信心を身につけて行かなきゃならない。
  昨日は、二、三日前にお届けがあっておったんですけども、高芝さんの御親戚に当たる北九州の方へ、こちらに居られる時には、ここへもよくお参りになられた方でしたけれども、今、ある教会で熱心に信心なさっておられます。先日から大変疎遠になっておられましたから、こちらから電話をかけられた。そしたら、もうこの頃自分が身体が不自由になってから大変難儀をしておる、と。もう、とにかくハンドバックさえ持てん事になって、もう全然、この親指何とかという病気と言うたかな、その親指がぜんぜん動かない。そして、このハンドバックも掛けられんごとあると言うわけです。
  「まあ、そげんあるなら、どうして合楽に早よお届けせんの。どうして参ってこんの」と言うて、「とにかく、すぐお届をしとくからね」と言うて電話を切られた。それから、どうぞお願いします、と言うて、まだここにお届けする前じゃったの(えっ、夕方で)夕方じゃったの。電話がかかって来てからね、もう指が動くごとなったと。それで、昨日、十三日会にあちらから御礼に出て来ておられました。そして十三日会に、言うならば神の願いが成就するという程しの合楽での一番大きい研修機関ですけども。その研修会にもお話頂いて、大変喜んで帰られましたんですけどもね。私は、これなんかは、あの何と言うでしょうかね、こまごまと話なさなくてもね。合楽の真価というものを高芝さん達夫婦が、ようく自分で頂いて、そして、言うならばどうして早よ合楽にお届けせんの、これなんですよ。いわゆる、その合楽の信心をしておるからこそ、そう言えるのです。それがそのままおかげになって表れておるんです。だから、結局、日々御夫婦で日参、いわば合楽理念の行者足らんとして、修行しておられて、出来たり出来なかったりだろうけれども、ね。それに向かって精進しておると言うこと。
  私は、その答えはね、いわゆる人に伝えてそれが助かって行くというこの実証が、その信心のその人の内容だと思うのです。合楽理念がこうだと、例えば説いて聞かせても相手に通じもしなければ、助かりもしないならば、結局あなた自身が実験者でないからだ。実証してないからだ、というふうに言うてもよいのじゃないだろうかと思うのですね。いよいよ本気で合楽理念そのものが、だから真の信心です。合楽理念を、ここはどうあることが合楽理念か、と。合楽理念ではどう説くか、ということを行じていくことが真の信心。真の信心とは、大変範囲が広くてむつかしかった。けれども、合楽理念をここで申しあげる、皆さん達に聞いてもらうようになって、真の信心とは、もうこれだ、というふうに決まった。だからそれを実験し実証して行くところから、真のおかげもめいめいが頂いていけれる。だから人に伝えていけば人にも伝わっていく。
  最近は高芝さんの御親戚が、義理の妹さんにあたる。あちらは何処じゃったかな。場所は飯塚と大阪です。そちらの方へお話をされてお参りをして来られてから次々と、本当に奇跡、不思議と言うようなおかげを頂かれますから、それが段々広がっていってるんですね。言うならば、人に伝えていくという事の内容がです、その良いことばを合楽理念を説いて聞かせると言うのではなくて、合楽理念を言うならば身につけて行っておる。行じていっておる。そして、言うならばそんなあなた難儀なことならば、どうして早よお届けせんの、と言うことなんですね。それが、今度はまた真の信心をさして頂くことになり、そして、別にお社まで求めるのではないけれども、あの大きな御神米入れを買うて、御神米立に御神じを納めて拝むと言うて、何軒もこの頃から家でお祀りして拝ましてもらう、というところまでおかげを頂いた。言うなら合楽の信心のあらたかな事を体験して行っておられますね。ですから、これは本当に、伝えていくということのその内容が、合楽では合楽理念をもって、私共の日常生活が、なされて行くというおかげ。

  人に伝えて真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、と。これが神になるのぞ、と。だからそういうおかげを頂いて、そこからの信心が大事になってくるね。お導きをした方達が、また、本当の意味での助かりに、つながって行かなきゃならない。
  昨日、高山さんのところの話をさせて頂いたのですけれども、あ々して、段々真の信心になって行かれ、一家をあげて言うなら改式までさせてもらうと言うようなおかげになってきた。これなんかもやっぱり、一番始めは高芝さんのお導きでしたもんね。だから人間の眼ではわからないね。真の信心をするから、真の信心のおかげが受けられる。真の信心をする人達がその周辺に助かっていく、ね。只、自分はおかげを頂いている、自分は助かっておる、と言うだけでは、これは、おかげを頂いておるわけですけれどもね。今日の御理解から言うとです、そんなら、それだけ、自分の周囲が助かって行かなきゃいけない。それが、神にもなるのぞ、と言うような、徳を受けて行っておる信心でない事を、まず、知らなきゃいけない、ね。だから、これは、高芝さんの信心が、どこが真か、どこが真の信心か、どこがなら合楽理念の行者か、と言うと、私でんわからんごたる感じがするんです。そげんじゃなかろうごたるけれども、事実が証明するわけ、ね。
  銘々の助かりと自分の周辺に真の信心をする人達が、段々できてくると言うこと、ね。今、日田なんかが、あ々して、大変盛んになってまいりましたけども、その一番始めは、やっぱり高芝さんじゃった。その合楽の信心を解き明かす、というような事じゃなかったろうけれども、とにかく、やっぱり助かって行ってるという事実がです、ね。これは、本当に高芝さんの信心を、言うならば解剖すると言うか、それを本当にどこからそういうものが生まれてくるかと言う事を、私共はやっぱり研修させてもらわねばいかんな、と。如何にも形の上では、あちらは出来とる、よか信心しなさる、と言うても、只、自分だけが助かっとります、と言うだけで、周辺にそういう働きを及ぼしていかないならばです。今日の御理解とは全然。  いわゆる、真の信心にもなっていない。真の道を踏んでいるわけでもない。神への御礼ぞ、と言うような事にもなっていない。勿論、生神をめざすと言うような事になっていない事になるのですね。これはもう、いよいよおかげを頂かしてもらわななりません。

  昨日、十三日会の芯になりました、「八紘一宇」と言う「八紘」、「八つの光」それを天地の中に広げて行こうと。言うならば小さく言うならば、地球上、人間の住んでおる世界に、この光を広げて行こう、それを合楽示現活動に参画する、と言う大変理論的に言うといろいろ沢山ことばもならべなきゃならんのですけども、結局は自分の周囲に真の信心をする人達が出来ていくと言うこと。そこにつきるんですね。それが広がりに広がって、言うなら世界中に広がっていくというおかげを頂く、と言うことなのですからね。

  私は、その高芝さんのお導きの具合というものを思うんですけども、昨日の御理解で、昨日の十三日会の中から私がお話ししました中から頂きますとですね、「守る」というこの「ウ冠」の守る、「ウ冠に寸」と書いたと言うのではなくて、まもられておる彳扁に護衛の「衛」と言う字ですね、これも「まもる」と読むのですね。只、その高芝さんの信心が完璧によく出来ておると言うのではなくて、事、神様の事になったら、一途だということ。だから言うておる事が少しでも違うとってもです、神様がそれを衛って下さると言う、そういう働きの中に、お導き、それがもう本当に言うならば助かってもらわなければおられない、と言うそれがそのまま今日ここで言うと、それが神になるのじゃない、神心となりて人に話をしていくという。
  だから、人間のことですから、お粗末がある、御無礼がある、けれどもその事に限ってだけは神様が衛って下さる、ね。わかりやすく言うと、私がかば目時代に雲隠れのように居なくなったもんですから、修行どきになっても帰ってこんもんですから、家中の者が皆心配してから探しまわった時があった。それで福岡にでも行っちゃなかじゃろうかと言って秋永先生ところに電話かけた。だから、秋永先生もびっくりして、文男さんやら高橋さんやら言うて、自動車でかば目にやってきた。その時に自動車の中で話した事はです、今日はどげん飛ばしたっちゃよかぞ、と。昨日その事を話よりましたが、120キロ出した。三十五分間で来た、かば目まで。今日はどげん飛ばしたっちゃよかぞ。今日は親先生の事一途でかば目に向かっておる。自分の我情でもなからなければ、我欲でもない。今日は引っ掛かるはずないぞ、と。これが、神様の言うなら守護の「守」ぢゃなくて彳扁のいわゆる「護衛されて、衛られて」

  今度、若先生が宮崎に参りまして、まあ大変な反響を呼んで、二日間にわたって、あちらで一日くり上げて、十三日会を十二日にしてかえって帰って来たわけですけども、言うなら神様の心に反したことがあったかもわからない、調子に乗り過ぎたといったような事があったかもわからない。けれども神様がね、そういう、事、神様ということになってくると、神様の方がねそれを衛って下さる。例え、なら交通違反ですよね、120キロも飛ばすということは、けども今日だけはひっかからんと言う確信と言うかね、神様もまた必ず守って下さる。その守りがこの「彳扁」
  私は、高芝さんの信心が完璧じゃないけども、いつの場合でもです、やはりそういう一途なものが、そういう衛りを受けておられるという事ではなかろうかと思ってですね。「自分がおかげを頂かなければ人には話されん」「おかげ頂いとっても人に話されん」といったような人があるんです。そういう時に一途なもの、私は、高芝さんの信心を探ると言うなら、そういうものじゃなかろうか、と。だから本当に高芝さんの信心がです、この「ウ冠」の守るですたいね、が出来られるようになった時には、高芝さん自身に神になって行かれる手立てが出来る時だというふうに思うです。
  それはお導きをする時にいわゆる場合によると、針少棒大と言ったことが出てくるかもしれない。けどもその人が助かっていく事のためですから、その一途なものを神様がカバーして下さる。それが彳扁の衛りを受けながら、今日何十年間の信心をしておられる間に、どれだけの人が助かって来たか、どれだけの人が真の信心をめざしておるか、と言うことになるのです。自分が完璧に知らなければ、わからなければ、お導きができない、という事ではないことがわかります。事、一途、それが本当に助かってもらいたいという一念がですね、言うならばお導き、言うならそれを合楽示現活動に参画する、とこう申します。その合楽示現活動に参画させて頂いて、そしてその周辺に光をもたらして行くというような願い。
  最近では、共励会倍増ですかね、各地に共励会場が増えて行っておる。だから今まであった、例えば久留米なら久留米、福岡なら福岡、と言う共励会がですね、共励会場がいくつも出来るじゃなくて、その共励会の言うならば芯にです、内容にですね、言うなら新しい一つの信心の勢いというものが出てくると、マンネリ化した共励会場が、また新な人達も入ってきて、言うならば、古い、古いと言うか信心の同志だけが集まって楽しんどる。楽しんどるというたら何ですけど楽しんどる、といったような感じです。そういう信心から、いわゆる未信の人達も救われていく、助かっていくと言うような、それが倍増になっていくということも、やっぱり願わなきゃいけないと思うね。そういう会場があちらもこちらも出来たというような事じゃなくてです、言うならば、合楽示現活動に参画する。どうも、そのマンネリ化するといけません。
  ある会の会員の方が、その支部なら支部で、一年に一度の謝恩祭がある。そのために、お金を何千円づつか、毎月積立てておられる。そこで、みんなにお話しをしても、月に
二千円づつも出さんならんと言ったような事が段々出てきた。だからそういう事で、お話を聞きに行きたいけども行けない、と言ったような事ではやっぱりいけませんもんね。もうそれこそ、どういう未信の人でもおかげを頂いて、その事のお届けがありましたらね、例えばね、今度の私の中近畿の時には、やはり入場券を取ってのお話であった。と言うだけに、言うなら値打ちのあるものだ、と。
 あんたんところの支部は、それだけ値打ちのある人達が集まって来、値打ちのある、言うならば支部と言う事のような考え方はどうだろうかと。そして、あちらの支部員の方達は皆、そういう事をありがたく出来れる。言うならば、程度の高い人達が集まるようなおかげを頂く事を願われたらどうだろうか。せっかく、そげん思い立っておられるのを、けどもこれは、やはり、支部長としても考えなきゃならん事。けども支部員としてはです、やっぱり、そういう頂き方をしなきゃならない。  うちの支部は言うならば入場券を取ってしよる。それでもどんどん人が集まって来る、と言うようなおかげを頂かねばならない。この辺のところは、いろいろ考えなきゃならないところでありますね。
  人が助かっていくと言う事の手立てが、いろいろにこれからなされていく事でしょうけども、その内容というものがです、いよいよ、只、助かっていく事の為の、本当に人が助かっていく事の為の心情というものが、そこに表れてくるような、一つおかげを頂きたいね。
  神になる手立てということの信心が守られる、と言う事であるならばね、示現活動によって守られると言うのは彳扁の言うなら衛られる。例えば人が、今も申しますようにね、どうもそれでは新しい人を導くのに導きにくい、と言うような事なんですけれどもね、次々会費を納めなならん、と言ったような事ではね、けれどもそれが、言うならば心情からであるならばです、また、心情からでありましょうから、そういう会の人にね、そりゃ、あんたんところの支部は、言うなら値打ちのある支部として神様のお引立てを頂くという頂き方。そこには少し人情が入ってね、少しでもよけいりっぱなお祭りがしたい、といったような見栄的なものがあるかもわからない。けれどもそれは、事、神様に向けていくのですから、それでもやはり彳扁の衛りだけは受けていけれるだろうと言うふうに思います。事、神様へむかって進んで行くことですからね。
  自分達の周辺に、どれだけ「発紘一宇」の信心が出来て行っておるか、まずは、自分の一家から、まずは自分の周辺に広がって、いわゆる「発紘一宇」と言う、言うならば、世界万国に広がって行くという程しの事になるのです。まずは、手許、足許のところから、真の信心を、いよいよ、伝えていけれるような願いをもつこと。
  これは、神様の願いでもありますから、神様と私共の願いが一致するから人が助かっていく、という事になるのじゃないでしょうんね。「どうぞ」